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[Soyeon]
それは、季節はずれに蒸し暑い夜のことでした。
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[Soyeon]
ポーラースターは夜半から、濃い霧につつまれ、デッキに立つと、ちょっとの先も見えないほどでした。
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[Soyeon]
もちろん、わたし達学生は、寮の中にいたから、関係ないんだけど……。
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[Soyeon]
窓の外を通る、霧だけの海。それだけで、室内がしけってくるような感覚はありました。
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[Soyeon]
今、思えば、天気なんてまるで関係ないのかもしれないけど……。
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[Soyeon]
あの不思議な事件が起きるには、十分すぎる雰囲気だったんです……。
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[Tenkyouin]
すごいな……、まるで外が見えやしない……。
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[Narration]
窓の外をのぞき込みながら、天京院はそうつぶやいた。
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[Narration]
自分の部屋で、自分の机につき、何をするでもなく窓の外を見ていた。
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[Narration]
彼女の言うとおり、霧だらけで何も見えない外を。
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[Soyeon]
濃霧注意報が出てました。
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[Soyeon]
今夜は、学生は甲板にあがっちゃダメってことですね。
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[Tenkyouin]
ふん、安全のためか……。
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[Tenkyouin]
そんじょそこらの船ならわかるが、このポーラースターのどこから海に落ちる危険があるというんだ?
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[Tenkyouin]
外に出てから、甲板の端にいくまでに、この霧じゃ迷子になる。
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[Soyeon]
迷子になったら困るってことじゃないですか?
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[Tenkyouin]
ふん……。
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[Narration]
ソヨンの言葉が、意外に彼女の論の隙をついたのか、天京院はつまらなそうに鼻をならすと、コーヒーを口元に運んだ。
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[Soyeon]
それにしても、杏里さん、遅いなぁ……。
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[Narration]
ソヨンは、彼女が、正確には彼女と杏里が、拾ってきた猫、ヤーンを抱きながら、そうつぶやく。
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[Tenkyouin]
なんだ、杏里も来るのか。
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[Soyeon]
ええ、あとでこちらに来るって言っていました。
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[Tenkyouin]
やれやれ、コーヒーを用意しておいてやらなきゃな。
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[Narration]
天京院が腰を上げる。ミキサーの立ち並ぶ部屋の一角へと歩み寄ると、棚の一つをあけてコーヒー豆の袋を取り出し、そのひとすくいを、ミキサーの中へ放り込む。
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[Narration]
やがて、部屋中に響き出す破砕音、そして、充満するコーヒーの香り。
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[Soyeon]
ヤーンもすっかり大きくなりましたね。
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[Narration]
ソヨンの手の中でおとなしく抱かれているマーブル模様のマンクス猫は、すっかり四肢もがっしりと伸び、ソヨンが船の下層部で助け出した時の名残はほとんどない。
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[Tenkyouin]
拾ったのは、おそらく、生まれてからひと月もたっていない時だ。
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[Tenkyouin]
あれから、何ヶ月もたっている。成長もするだろう。
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[Narration]
猫にとって、生後1年は、人間にとって成人するまでの期間に当たる。まだ赤ん坊だったヤーンも、この数ヶ月で少年といえるまで成長していた。
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[Soyeon]
大事にされているね、お前。よかったね。
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[Tenkyouin]
ふん、手間がかかってしょうがない。研究の邪魔さ。預かるんじゃなかったと、まだ、後悔する時がある。
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[Soyeon]
あんなこと言ってるよ? 本当かな?
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[Narration]
ソヨンの問いかけに、ヤーンは一声鳴いて答える。肯定とも否定とも判別はできなくても……、ソヨンには虐待された飼い猫のだす声ではないと確信した。
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[Soyeon]
ふふふ……。
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[Tenkyouin]
ふん……。
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[Tenkyouin]
しかし、遅いな……、杏里は。ソヨンをここで寝かせる気か?
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[Soyeon]
ご心配なく、あたし、まだ、起きていられますよ。
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[Narration]
ソヨンが噛み殺せなくなった笑いを浮かべて答えた時、部屋にノックの音が響いた。
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[Soyeon]
……誰でしょう?
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[Tenkyouin]
さぁ?
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[Soyeon]
あ、あたし出ます。
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[Narration]
ソヨンが、ヤーンを専用のベッドに戻し、立ち上がる。軽快な足取りで、障害物だらけの部屋を横切って、ドアへと向かった。
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[Soyeon]
はい……。……え?
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[Narration]
内側から施錠を解いて、訪問者を迎え入れたソヨンが、疑問の声をあげる。
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[Tenkyouin]
誰だ? ………………。
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[Narration]
ミキサー付きコーヒーメーカーの前から、視線をドアへと向けた天京院が、ソヨンが中に入れた人物を見て、押し黙る。
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[Narration]
招き入れられた人物は部屋の主を見て、言った。
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[Anri]
遅くなってごめんなさい。
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[Tenkyouin]
………………。
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[Soyeon]
………………。
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[Anri]
どうしたの?
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[Tenkyouin]
いや、どうも。別に、待ち合わせをしていたわけじゃない、少なくともあたしは。部屋におしかけられただけだからね。
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[Anri]
……ああ。
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[Tenkyouin]
ところで……。
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[Narration]
天京院は持っていたコーヒーカップを手近な棚の上に置き、訪問者をねめつける。
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[Narration]
それは、そっとその背後に回り、ドアへの退路を断った形のソヨンも同じだった。慎重に視線を向けている。
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[Narration]
そして、二人は同時に口を開いた。
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[Narration]
「君は、誰だ?」
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「あなた、誰ですか?」
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[Anri]
……ばれていたんだ。
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[Tenkyouin]
ばれていないと思っていたのなら、浅はかだな。狐や狸の類が杏里に化けたのか?
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[Anri]
……どうしてわかったの? 少なくとも、おかしな態度はとっていないと思うけど。
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[Tenkyouin]
姿も声も、そのままか。お見事だけどね。
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[Soyeon]
でも、どうして、なんて簡単なことです。
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[Soyeon]
杏里さんが、天京院先輩の部屋に入るのに、ノックするわけがありません。
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[Tenkyouin]
そう。そして、あたしが杏里の来訪に気づかずに、鍵をかけたままにするわけがないってことさ。
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[Anri]
……そんな理由なんだ……。驚いたな……。
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[Tenkyouin]
驚くのは好きにしろ。何者だ、君は。
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[Anri]
想像以上に、変な人なんだね、この人は。
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[Soyeon]
……杏里さん!?
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[Tenkyouin]
なるほど……、察するに、幽霊かなにかの類が、杏里にとりついたか。
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[Soyeon]
え……、じゃあ、天京院先輩、この人は杏里さんの体を……?
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[Tenkyouin]
乗っ取っているとみていいだろうな。
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[Narration]
ゆっくりと天京院のそばまで寄ってきたソヨンの問いに、天京院は杏里から視線を動かさずに答えた。
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[Anri]
意外に、冷静なんだね。この人は、興味を持っていたよ。あなたが、幽霊を見て、どんな態度をとるのかって。
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[Tenkyouin]
ふん、取り乱して、そんなものはありえないと言うとでも思ったか?
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[Soyeon]
あ、あたしもそんな想像してみました。
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[Tenkyouin]
あいにく、この天京院鼎は学究の徒だ。およそ、この世に、科学で証明できないものなどないと信じている。
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[Anri]
じゃあ、私の存在は証明できるんだ。
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[Tenkyouin]
いいや。
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[Soyeon]
……矛盾してませんか、先輩。
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[Tenkyouin]
していない。単に、目の前にいる君に対して、あたしはあまりにも判断にもちうべき情報が不足しているだけだ。
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[Tenkyouin]
科学はけして、敗北はしない。だが、科学者の敗北は、情報の不足か、理論の未到達か、実践の不可能であり得ることだ。さて。
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[Tenkyouin]
何者だ、君は。さして用がないなら、そこから出ていってもらおう。
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[Tenkyouin]
別に、君を科学で証明できないことに、あたしはさして痛痒を感じないのでね。
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[Anri]
……私は……。
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[Anri]
この学園の学生。でも、それはずっと昔のことだけど……。
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The Rain and the Other Side of You
Hana ni Arashi
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